浄泉寺のあゆみ

浄土真宗本願寺派淨泉寺のルーツは、富山県中新川郡上市町の淨泉寺、そしてそのルーツである福泉坊にさかのぼることができます。淨泉寺の礎を築いた僧、福泉坊は寺伝によれば1493(明応2)年、蓮如上人より南無阿弥陀仏の六字名号を下附され、続いて一貫代の大きさの阿弥陀如来の絵像本尊(冥加金一貫で求められるご絵像)が下附されたことが記録に残されています。ここに、本願寺の末道場、福泉坊が誕生したと考えられます。福泉坊という坊号は僧侶個人の名前であると同時に、後年、淨泉寺と名乗る前の道場の名称でもありました。そして、淨泉寺の開基仏は現在も残されています。

福泉坊

2005(平成17)年は福泉坊が亡くなって500回忌にあたります。このことは龍谷大学の図書館に所蔵されている『越中国新川郡東江上村淨泉寺由来』に拠ります。この『由来』が書かれたのは徳川時代の初期、1682(天和2)年のことです。この年、本願寺は院家、内陣、余間の寺格を持つ、いわゆる三官一家衆の寺院に対して、由来書の提出を求めたことが文献から知られます。その『由来』の書き出しは「蓮如上人御末弟淨泉寺発起福専坊」とあり、淨泉寺開基の僧は本願寺八代蓮如上人の末弟子だったこと、上人に教化されて念仏の教えに帰依したことが判ります。坊号も勝手に名乗ったわけではなく、本願寺へお礼金を納めてはじめて許されたようです。蓮如上人が実子光専坊へ「三百疋の坊号料をたしかにうけとった」と認められた礼状が残っています。言い伝えによると福泉坊はもと大岩日石寺不動堂の鑰役をつとめる真言宗の僧であったが、やがて浄土真宗に転じたとあり、そのことは淨泉寺の寺紋として古くから使われてきた「二本剱」が不動明王が右手に構える剱を模して二本並べたものであったことにも名残りとして残っています。

淨泉寺

淨泉寺(富山県中新川郡上市町)

淨泉寺(富山県中新川郡上市町)

やがて本願寺が東西に分派して間もない慶長年間の末、1610年前後、『善徳寺文書』によれば東本願寺の当時のご門主、教如上人から淨泉寺という寺号を許され、福泉坊という坊号から淨泉寺を寺号に変わったと伝えられます。淨泉寺はその後、1667(寛文7)年に西本願寺へ転派するまで、東本願寺に属していたと『淨泉寺由来』は示しています。一方で、教如上人がお亡くなりになった二年後の1616(元和2)年、近在にあらたに淨泉寺が誕生します。淨泉寺の分立です。しかしのこの新しい淨泉寺はその8年後の1624(寛永元)年に淨誓寺と寺号を変えました。わずか数年ですが、東本願寺に属するふたつの寺院、淨誓寺と淨泉寺、ふたつの寺院が近接して存在していた時期がありました。さて、この淨誓寺から作曲家の福井直秋さんが出られ、武蔵野音楽学校、後の武蔵野音楽大学を創設されたことは、ふるさと上市町民の誇りとするところです。


淨泉寺

そして2011(平成23)年7月1日、埼玉県比企郡吉見町に浄土真宗本願寺派吉見布教所淨泉寺が誕生しました。淨泉寺開基の福泉坊が亡くなって508年、淨泉寺に生まれ育った私こと、釋学誠が橘正信総長から都市開教専従員の命を受け、埼玉県比企郡吉見町に開教の拠点を定めて、布教活動に取り組んできました。4年後の2015(平成27)年9月5日、古民家を改修して本堂となし開山式を営みました。改修工事の経緯はこちら(石川恒夫『開山式によせて』)をご参照ください。そして7年後の2018(平成30)年7月20日、石上智康総長から寺院設立(浄土真宗本願寺派に包括)の承認をいただき、浄土真宗本願寺派の東京教区埼玉組に編入され、現在に至ります。寺院を取り巻く環境は激変のただなかにあります。徳川時代には寺請制度のために行政機関の一翼を担った仏教寺院ですが、仏像を鑑賞する場所、座禅や写経を通してや宿房に泊まって癒しを得る場所、木造建築の粋を感じる場所、いのりを捧げる場所という、寺院本来の役割を見つめる時期にさしかかっているようにも思います。仏法の発信基地という本来の姿以外に、寺院が後世に伝えられていく途は考えられません。中世に聞法の道場として始まった多くの真宗寺院の原点に忠実に、地域の方々に親しんでいただけるお寺でありたいと思っております。

(釋学誠)

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